リーティアの隙あらば音楽語り

サブカル系音楽を中心に自分が気に入ったものを布教するだけのブログです

ヨルシカが「盗作」を通して表現しようとしているものは何か

こんにティア~~~ (定型挨拶文を考えてみた)(盛大なスベり)

7月、なかなか更新できなくてすいませんでした。主にレポートとかレポートとかレポートとかレポートとかレポートとかレポートとかのせいです。許さn

とあとつい先日熱が37.8℃出てしまいまして...。

これは"貰って"しまったのか!?なんて思ったりもしたんですけど、それからまた落ち着いたりしてよくわからんという感じです。皆さんも気を付けてくださいね。

 

今回は来週発売のとあるアルバムの曲の話がしたくて、ですね...

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7月29日に発売されるヨルシカのニューアルバム「盗作」。二部からなる前作「だから僕は音楽をやめた」「エルマ」に続いて今回もコンセプトアルバムというスタイルを取っています。そのコンセプトは「”音楽の盗作をする男”の”破壊衝動”」。そして先日、リードトラックとなる、アルバムのタイトルをそのまま冠した曲「盗作」が先行配信、MV公開されました。


ヨルシカ - 盗作(OFFICIAL VIDEO)

 

この曲を聴いて、いろいろ思うことがあったのですが、それがあまりに多すぎたので、今回ここにまとめようと思いました。

そもそも、「盗作」とは世間一般に言うような単純なものなのか?

ここで歌われる「破壊衝動」は本当に単なる負の感情なのか?

この曲を聴いたときに、このアルバムのコンセプトすらも、言葉通りの単純なものではないのかもしれない。そう思わざるを得ませんでした。それどころか、日常的に音楽を消費している大衆に対する皮肉がこの曲、あるいはアルバム全体に込められているんじゃないか。そんなことすらも感じたわけです。それらを考察という形で、この曲の歌詞から感じたことを書いておこうと思います。

 

※ここに書くことはあくまで自分が感じたことであって、これが正解だと押し付けたり、特定の考えを否定するようなものではありません。ご承知おきを...

 

まず、最初に引っかかったフレーズがこれ。

音を聞くことは気持ちが良い。

聞くだけなら努力もいらない。 

 この「聞く」という部分。「聴く」ではないんですね。

これは先日謎の伸びを見せてしまったネタツイですが... 僕、というか音楽マニアは大体そうな気がするんですけど、単に聞こえる、聞き流すという意味での「聞く」と、意識的、能動的に考えての「聴く」をやたら使い分けたがるんですよね。歌詞の中の「聞くだけなら努力もいらない」という一文が示すように、本当にただ「聞く」だけであれば何も考える必要もないわけで、逆に「聞く」という行為を「聴く」に昇華させるためには努力が必要なんじゃないかと僕は思ってます。「音を聞くことは気持ちがいい」というのも、これが「聴く」であれば気持ちよくなるだけでは不十分で、気持ち悪さもまた感じる必要が出てくる。こんな感じで、「聞く」と「聴く」は同じ「音を受け取る」という行為でありながら、その本質は全く違うんです。これをあえて「聞く」としたことはやっぱり意図があって、最初、この彼にとっての「音楽」は、何となく聞こえてくるものでしかなかった、と取れると思うんです。次に行きます。

この歌が僕の物になれば、この穴は埋まるんだろうか。

だから、僕は盗んだ

彼が音楽を盗んだ動機がここで語られるんですが、それがやたらと共感性のあるもので、彼は本当に悪者なのか?という疑問が、そもそもここで言ってる「盗む」とは?というところまで行きました。

僕が音楽を始めたのはヴァイオリンを習い始めた小学生時代でしたが、思い返してみればやっぱり、心の空白を満たすため、傷を癒すためみたいな、ここで歌われていることと同じでした。いや、むしろ、音楽を始めた人のほとんどのきっかけがこれで、それと同じ理由で音楽に縋っているんじゃないかって気がします。ここでもう一度最初のコンセプトを見てみると、「音楽の盗作をする男」という風にしか書かれていない。必ずしも、特定の誰かの音楽の盗作であるとは限らない。とすればこの男は、

”音楽”という概念そのものを盗んだ

という意味なんじゃないかと。そしてそれを裏付ける言葉が、動画の概要欄に書かれていました。

俺は、音を盗む泥棒である。 それはメロディかもしれない。装飾音かもしれない。詩かもしれない。コード、リズムトラック、楽器の編成や音の嗜好なのかもしれない。また、何も盗んでいないのかもしれない。この音楽達からそれを見つけるのもいい。糾弾することも許される。 客観的な事実だけなら、現代の音楽作品は一つ残らず全てが盗作だ。意図的か非意図的かなど心持ちでしかない。メロディのパターンもコード進行も、とうの昔に出尽くしている。

音楽をやるということは、演奏にしたって作曲にしたって、まず最初は先生や過去の音楽家たちに学んでそれを真似ていくという過程から始まるものだし、その影響はその先どうしてもついてくるものだと思うんです。つまり、音楽をやるということは、言うなればそれまで積み上がってきた文化や歴史に乗っかるということ。要するに、

音楽をやる=その文化を盗む

ことなんじゃないか。少なくとも、この歌を聴いた時、僕はそう感じました。

「真にオリジナルな音楽は存在しえないのではないか」という議論は度々湧き起ってきましたが、このアルバムはそれに対して一つの見解を示すものかもしれません。

 

サビは最後に回して先に2番の歌詞を考察しますね。

「ある時に、街を流れる歌が僕の曲だってことに気が付いた。 売れたなんて当たり前さ。 名作を盗んだものだからさぁ! 彼奴も馬鹿だ。こいつも馬鹿だ。 褒めちぎる奴等は皆馬鹿だ。 群がる烏合の衆、本当の価値なんてわからずに。 まぁ、それは僕も同じか」

 このフレーズを見た瞬間に、この「音楽の盗作をする男」が強いて誰を指しているかと言えばn-bunaさん自身だろうと思いました。というのも、彼は今では個人のTwitterアカウントを削除してしまいましたが、かつて「音楽は一過性のものなので特定の物を好きになりすぎるのは危険」という趣旨の発言をしていたことがありました。それは言い換えれば、自分の曲ばっかり聴いて他の曲に目を向けない一部のリスナーに対して違和感を抱いていたんじゃないかとも思えます。男の言葉に「この音楽たちからそれを見つけるのもいい。糾弾することも許される。」とありましたが、むしろそれをしてほしいのでしょう。それは要はルーツミュジック、音楽的土台を辿るということです。それもせずにただそこにある音楽だけで全てを理解されたような口を叩かれることは、音楽に対するリスペクトが決定的に欠けている、そうn-bunaさんには感じられていたのかもしれません。あるいは世間で売れている音楽が必ずしもすごい音楽であるとは限らないということを伝えようとしたのかもしれません。ここに関してはいろいろ解釈の余地があると思いますが、とにかく現状の音楽リスナーの在り方に対して思うところがあって、それを作品という形で発信してることは間違いないでしょう。言ってしまえば音楽を「聞く」人から「聴く」人が増えてほしい、そんなことだと思います。

 

最後に、彼の持つ「破壊衝動」とは一体どんなものだったのか?

肝心の男の気持ちが歌われているサビは、「まだ足りない」「愛を知りたい」「美しいものを知りたい」というおおよそ破壊衝動という感情とは真逆なんですよね。じゃあその破壊衝動はどこに向けられたのか?と言えば、まぁ自分の内面、閉塞感や空虚に対して向けられたもので、そしてそれらを壊すために、愛を知ること、綺麗なものを知ることが必要だった。いや、本当はそれこそが目的であって、音楽を盗む行為は単なる手段に過ぎなかったのかもしれません。実際の音楽家にしても、本当に音楽を作ること、音楽で成功することを至上の喜びにする音楽家もいれば、自分の感情を表現する、もしくは人の感情を動かすためのツールとして音楽をやっているというパターンもあると思います。そしてこの男の場合は後者だったのでしょう。破壊衝動と言ってしまえば少々物騒かもしれないですが、その実はある意味では悲しく、人間らしい感情だったのかなと思います。

 

 

まぁいろいろ書きましたが、あくまで全部憶測なので。実際のところはアルバムが発売されたときに全貌が見えてくるんじゃないかと思います。これまでに解禁されている収録曲どれも力作揃いでもう期待値は上がりきってるんですけど、やっぱり多くのファンが注目しているのは再録される爆弾魔じゃないかと思います。一度アルバムに収録された曲がまさかこんな形でまた入ってくるとは思いませんでしたが、おそらく「破壊衝動」という点で大きな意味を持ってくるんでしょう。あと個人的に気になるのが、「花に亡霊」の真の存在意義です。あのいかにもアルバムのコンセプトとはかけ離れて見える不気味なほど綺麗な曲が最後に入っているっていうのが、意味のないことだとは到底思えなくて、これもアルバム全曲通して聴いたら何かわかることがあるんじゃないかという期待がありますね。

 

あんまりダラダラ書いてもあれなのでそろそろ締めようかな。。。レポートもこれくらい簡単に字数稼げればいいのに... 7月全然書けてなかったからもう1個くらい何か書きたいですね。レポートに余裕があればですが......